小和田周辺情報集
小和田駅周辺の情報について、とりわけBBSなどで皆さんが提供してくださったものをまとめてみました。
1.マキホツ経路について

黄緑桜さんのレポ記より(抜粋)

 『マキホツ方面経路』と書かれた真新しい標識があったので、そこに入りました。そばに、水窪町森林組合?のこれも真新しい最近の巡回票があったのは目にされましたか?  山火事防止などと書かれたものです。大平さんと杉浦さんのお名前がありました。この巡回票があったので、きっとマキホツ方面にも抜けることが可能であると判断しました。この道は25000分の1地形図にも記載されていないし、マキホツがどこなのかもわかりませんでした。いずれにせよ、上に行けば天竜川林道があるのは確実なので、無理やり挑んでみたものです。それにしてもマキホツってどういう意味の地名でしょう?
 その径路は、はじめのほうは踏み跡もはっきりしていたのですが、数十メートル登った地点で踏み跡すら私には判断できなくなりました。林業の方ならわかるのでしょうが。しかし、あの巡回票と斜面に刺さった赤い目印を頼りに1時間ほど尾根伝いに登り、やっとのことで林道にたどり着きました。林道につく直前には、1メートルほどの石垣が積まれた地点がありました。集落跡なのでしょうか。「石垣積みの地点」から東南東方向に、ほぼ等高線に沿って緩やかに下っていく踏み跡が見えたように記憶しています。登るのを急ぐばかりに確認をしませんでした。もしその踏み跡が生きていれば、西山林道の門谷橋へ到達できるのではないでしょうか。(林道に)到達した地点は、757m標高点のすぐ西の林道がヘアピンになっている地点だと思われます。そしてそこに至る道は、ヘアピンの頂点から真西に伸びる尾根だったはずです。

MIZさんのレポ記より(抜粋)

マキホツから先、歩いてきました。やはり小和田から大嵐まで五時間かかりました。
11時半マキホツより。九十九折れを上がるにつれて道が荒れてくる。杉の倒木が行く手を遮る。☆黄緑桜☆様はココから尾根に出たんでしょうか? 自分は尾根を回りこむように道らしきものを探しながら進みました。しばらく進むと天竜川が姿を消し、谷の対岸に西山林道が見えてくるが、しかしやはり前進不能になる。本当はココで帰ろうかと思いました。ホントに。数メートル戻り尾根沿いに上がってみることにしました。
12時15分上がり初めてすぐ石垣が見え始める。そこまで登ると石垣が4・5段、古井戸と思われるものと、比較的新しめの卒塔婆が二本、そして屋根が落ちた廃屋跡が待ち受けていました。ここに電信柱も、当たり前ですが人工物を見つけてホッとするのと、朽ち果てる姿を見て物悲し感じました。
12時半、西山林道をめざして出発。尾根を回り込むが、やはり道が無い。仕方なく登り始める、と、上の方から車の音が。目を凝らすとガードレールが見えた。
13時、天竜川林道到着。地図を見るとそこからショートカットする道が有るんですけど、廃屋に続く道の他、何箇所か怪しいふみ跡が有りましたが、入り口が解からずそのまま西山林道にはいりました。
14時、大嵐駅到着。疲れたです。

OZI-6さんのレポ記はこちら(写真あり!)

2.マキホツとは何?

黄緑桜さんがMさんより頂いてきた情報

漢字で書くと巻頭(マキホツ・マキボツ)
 マキホツ方面径路から登り、途中にあるあの石垣がマキホツ集落とのことです。2〜3軒ほどの集落で、『昭和40年ころに最後の住民が出ていったんじゃないかなぁ。』とのお話でした。また、Mさんは『ヒカゲマキホツ』とも呼んでいました。
 静岡県磐田郡水窪町 民俗資料緊急調査報告書、静岡県水窪町、昭和43年」によると、『ホツ』とは水窪町の方言では「丘、高い所」という意味です。また、Mさんによると「尾根のこと」だということでした。

けんじさんが水窪町産業課より得られた情報

場所の地名です。謂われ→マキが多くあるホツ
*わかりやすく言うと
・「椎茸原木が多くある丘」
と言われているそうです。(地元の方の話です)

ちなみにマキホツ集落は現在の国土地理院の地形図はおろか昭和29年度版1/50000地形図「満島」にも記載が無い(たもと千代さんの情報)

3.門谷集落について

たもと千代さんの投稿より(抜粋)

最近飯田線沿線地区で配られている「SAN圏域各人停車」というパンフレットにこの水窪町門谷の記述がありまして、それによりますと
「〜今は一人も住んでいない門谷の集落が現れる。廃屋の村と聞いていたのに、畑の野菜が実りお茶畑が青々と輝いている。なぜならここは離村した村人たちが声を掛け合い寄付を集めて綾村神社(五穀豊穣の神)を再建。水窪町内や近隣の町へ移った人たちが時折訪れては、故郷の土地を守り続けているという〜」
 という事情があるそうです。
私が1991年に大嵐から水窪まで歩いた際には、道が大荒れでこの門谷到着時にはすでに夕刻になってしまっていました。その時一軒の民家から夕食を作っていると思われる煙が出ているのを見て、人恋しさが癒されたのを覚えています。
(綾村神社が、地理院の地形図に描かれている神社かどうかは定かでないようです)

4.門谷集落の中心を通る道

たもと千代さんの投稿より(抜粋)

集落の中心を貫く道は1999年に小和田〜大嵐を歩いた際、両林道のショートカットで通りました。草ぼうぼうの中を丸木橋を渡りながら進む、なかなかスリリングなコースでした。西山林道側から行きますと、あの有名?な手書き看板の近くに、畑をよじ登る感じの鉄ハシゴがあり、その先となります。

5.高瀬橋対岸(河内川北岸)から天竜川林道へ至る山道

MIZさんのレポ記より(抜粋)

高瀬橋のケーブルを固定してある手前のコンクリートの脇からマキホツ方面のような道が九十九折れになって上の杉林の中に消えている。やはり相当な角度で、落ち葉がビッシリ積もっている。しかし、国土調査はへこたれない。リボンだけではなく赤と黄色の杭を点々と打ちこんでいる。自分は落ち葉に足をとられつつ休み休み登る。

 13:04ごろ石垣が何段にもなっている場所につく。屋根の跡らしき物も有り、ここが集落跡だと教えてくれる。たぶん、ここが土場の集落跡ではないかと予想されます。道が解かりづらいですがとにかく上へ、そうしたら尾根に出ました。

 13:31.日の当たる九十九折れを行くと白い筆界基準の杭が。そこから20分ほど登り尾根を回り込むと、頭上に淡い青緑の建物とガードレールが見えました。ヤッターやっと登りきったと思いました。が、上がってみるとそこは、まだ林道ではなかったです。そう、そこは途中と言う名の集落の一番奥の天竜川よりの民家だったのです。地図では点線と実線が離れてますが、本当はT字路が正しいと思われます。青緑色の建物は車庫でT字路の突き当りまで車でも来れます。(ただ、住人でもない人の車を乗り入れるのは、控えたほうが良いでしょう。)たもと千代様がこの高瀬橋まで下る道が解からないようでしたら、ここから林道に上がってこの道の入り口を確認されたら良いのではないでしょうか。下りは、この車庫を右手から回りこむように下ってゆく形になります。そうして、天竜川林道に到着。14:01。

 そこから、林道沿いに駅を目指しました。不生と言う集落を通り中井侍駅に到着。15:08合計、やく4時間の道のりでした。高瀬橋までの道ですが、林道から下るとなると道が見つけづらく、急勾配と落ち葉などで、より危険度が増すと思われます。

6.大輪集落

黄緑桜さんがMさんより得られた情報

大輪(オオワ)は飯田線のトンネルに名前を残す地名です。
門谷へ向かう道の途中にある廃車体の下側一帯をオオワといいます。
ダムができる前、このあたりの天竜川の流れが河道の大きな湾曲のために渦を巻いており、大きな輪に見えたためこの地名になりました。天竜川対岸の富山村地内もオオワと呼んでいました。

7.土場集落

黄緑桜さんがMさんより得られた情報

土場(ドバ)は高瀬橋対岸の天竜村の地名です。
天竜川に流れ込む沢の音の様子からつけられた地名のようです。河内川のことではないようでしたが、昔は水量の豊富な沢があったのでしょうか。
また水窪町側の高瀬にはその地形を利用した船着き場があったそうです。


8.佐太集落

黄緑桜さんがMさんより得られた情報

佐太(サタ)
富山村にあるこの地名の由来は、三州分割を示す『三分渡(サブト?)』とのことです。
『三分渡』が『佐太』の字に変えられ、最終的には『佐太(サタ)』と呼ぶようになりました。
現在の漢字では気付きませんでしたが、いかにも三県境の地名だったんですね。

鷹巣橋から険道一号を北上して3つ目のトンネルが佐太(さぶと)トンネルといいます。そこから林道手澤線が分岐します!

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